愛についての試論 ──『若きウェルテルの悩み』を一例に──



…wir so oft jemanden zu lieben glauben, weil er bestimmte Eigenschaften besäße – während wir ihm diese Eigenschaft nur geliehen haben, weil wir ihn lieben…

(私たちは誰かを愛するにつけて、彼が特定の性質を所有しているからだと考えることがしばしばだが──実は私たちが彼に当の性質を、彼を愛しているからという理由で、単に貸し付けているにすぎないのである)

── Georg Simmel, Philosophie des Geldes


 ゲオルク・ジンメル、ライナー・マリア・リルケ、ヘルマン・ヘッセ──ここに挙げた偉大な哲学者、詩人、小説家はみな、愛とは与える側にあるという。たとえば、彼らはこう説く。「愛されることは何ものでもなく、愛することがすべてである」(Hesse 1986 = 2019: 296)、あるいは、「愛されて生きることはくだらないことで、危険でもある。そうだ、愛される人間は自らを克服し、愛する人間にならなければならない」(Rilke 1910)、と。愛を尽きることのない湧水に喩えるにしても、反対に有限で貴重な宝石に喩えるにしても、いずれにせよ、愛というものは決して誰かから与えられるものではない。
 愛の悲劇とは、それが〈ただ与えることしかできないもの〉であることに他ならない。裏を返せば、それは与えられることは決してないのだ。全く不思議なことに、誰かに愛を与えることは、単に可能であるばかりか、ときにそれは簡単でさえある。しかし、その逆、愛を受け取るということは、決してできないのだ。愛とは〈決して与えられることがないもの〉なのである。愛は送り手にとっては確かな手触りがあっても、受け手にその手触りは絶対に伝わらない。次のように言い換えるのが最も適切なように思われる──愛は「存在」ではない(Liebe ist nicht das Dasein)。誰かからの愛は、目の前に置いて触って確かめることはできない、ましてや、あなたの持ち物にもならない。愛は決してそこにはなく(Liebe ist nicht da)、ただ自分から相手へと与えることができるのみである。愛はどこにもない、あなたが他人に与える愛を除いてはどこにも。
 こう聞くと、すかさず反論が飛んで来よう。「私の愛された経験はなんだっていうのだ!」と。たしかに「愛された経験」という言葉を聞いて、いくつかの記憶が想起される人がいるかもしれない。たとえば、あなたは恋人から凝った手料理を振る舞ってもらったかもしれない。それこそ、愛を与えられた証明に他ならないのではないか、きっとそう反論するだろう。けれど、単にあなたの欲求を満たしたことが、あなたへの愛の存在を示すのだろうか。いいや、そうではない。空腹を満たすことは手料理でなくたって、街角の洋食屋でも全くこと足りることだ。欲求の充足など、恋人でも、コックでも、自分でも、誰にでも叶えられる。それに、恋人があなたに手料理を振る舞わなかったからって、愛が潰えたことにはならないだろう。では、食事の間、あなたと仲睦まじく交わす楽しい会話こそが、愛の証明だろうか。いや、それもなくたっていい。病める日々が続き、食卓で交わされる会話に華がなくても一向に構わない。その人は、たとえ、何もしていなくたってあなたを愛している──「何もしていなくたって」──これが愛の全てを表している。「愛された経験」として思い出されるものは、よくよく考えれば、己の欲求の充足を愛の証明と取り違えているか、あるいは、せいぜい自分の与えてきた愛の反芻にすぎない。あなたは他者からの愛を何か具体的に与えられたものとして知ることは永遠にできない。実のところ、与えられた愛というものはいつでも、とるに足らない、替えのきく、あってもなくてもいいものなのだ。与えられた愛を全く正直に言い当てようとするのなら、「何もしていない」というのが最も誠実である。もしそうではなくて、あなたの望みを叶えるために愛があると考えるなら、「愛されて生きること」は、リルケの言う通り全く「危険」でさえある。なぜなら、愛は、ときにあなたの望みに反することさえあるからだ。欲求の充足を愛とみなすものは、結果的に、それこそ目の前にある愛を見逃すことになる。
 だから、愛の成功とは、愛を〈与える〉ことであって、〈与えられること〉ではない。愛の不在を嘆いたり、そもそも愛を求めたりすることは、はなから愛の失敗である。なぜなら、人間は愛を与えることしかなし得ないからだ。しかも、その愛は、受け手にとっては、せいぜい全く凡庸な、ときに無意味な、ひどいときには煩わしいものとしてしか受け取られないのだ。愛は受け手が望むようには注がれない──そうしてあのウェルテルもまた、ロッテの愛を誤解して遂には死んでしまった。
 ゲーテによる『若きウェルテルの悩み』は周知の通り、主人公ウェルテルが、ロッテへの叶わぬ恋に焦がれ、やがてロッテと結ばれることのない自らの運命を呪い、我が身を投げ捨ててしまうという悲恋の物語である。ウェルテルはロッテに愛されなかった──おそらく、ゲーテもそのようにこの小説を描いたし、読者の誰しもがまたそう解するだろう。しかし、よく読んでみれば、二人が愛しあっていたというのは全く過言ではない。ウェルテルが11月21日付けの日記で残したロッテの「またね、愛するウェルテル!(Adieu, lieber Werther!)」(Goethe 1774)という言葉は決して社交辞令ではい。ロッテは、苦悩するウェルテルを常に気遣い、夫アルベルトに対する不貞を働かない範囲で、できることは全てやっているのである。ウェルテルとロッテはともに、あるときは楽しい会話に興じ、あるときは憂いを分かちあい、詩を朗読し、ピアノを弾いた──二人が結婚できないということを除けば、もう十分に愛しあっていたのである。
 物語の根幹であるウェルテルの絶望とは、ロッテが既に夫アルベルトと結婚しているがために、ウェルテルはロッテと永遠に結ばれないことであった。けれども、ロッテはたとえ結婚できなくても、たしかにウェルテルを愛していた。ロッテは絶望するウェルテルにこう告げる。


このひろい世界にあなたの心からの望みを満たしてくれる人がきっといるはずです。自分に打ち勝って、探してみてください。かならず見つかります。というのも、あなたがこの頃自身を自ら呪縛して制限していることが、前から私は、あなたのためにも私たち[ロッテとアルベルト]のためにも心配だったのです。[……]あなたの愛に適う人を見つけて戻ってきたら真実の友情からの幸福(Seligkeit einer wahren Freundschaft)を楽しみましょう。(Goethe 1774)


ロッテは自分との結婚という望みをウェルテルが断念してくれさえすれば、「真実の友情からの幸福」があると言った。それは、両者の今まで通りの付き合いであって、楽しい会話に興じ、憂いを分かちあい、詩を朗読し、ピアノを弾いて、互いに愛を与え続けることにほかならない。しかし、ウェルテルはただロッテと結婚できないということによって、ロッテの愛を誤解した。ウェルテルは、結婚できなければ、両者の間に愛など存在し得ないと絶望したのである。そうしてウェルテルは死に至る──ロッテは彼を深く愛していたにもかかわらず。
 ウェルテルが悲痛なほど切望した「結婚」は、この悲劇を駆動する単なる舞台装置に留まらない。「結婚」はそれ以上に、愛を絶え間ない運動から素朴な「存在」へと硬化させるために働く。そうすることで、愛は受け手や他者から確認できるもの、すなわち「存在」になるのだ。
 先述した通り、愛は素朴な「存在」ではなく、〈ただ与えることしかできないもの〉である。だから愛の成功とは、永遠に愛を与え続けることでしかなし得ない。本来的には、他者の愛を確かめることなどできない。しかし、人間──愛の受け手としての人間は、この愛の成功をどうにか誰にでも確認できる「存在」の範疇に落とし込もうと、「結婚」という本来全く実用的な制度を自由恋愛へと持ち込んだのだ。そう、愛する相手もまた愛し方も自らの意志によって決断する〈自由恋愛〉へと。「結婚」という表象によって結果的に、愛はあたかもそこに存在するかのように具体化する。「結婚」しているから「愛を与え、また何より、与えられている」という転倒が起こるのだ。しかし、この転倒によって、愛の成功条件は多大に緩和されることになる。愛は永遠の贈与から、硬直した存在へと転化する。そうして、愛は確認することのできる素朴な「存在」になるのである。そして「存在」としての愛は、劇的な副作用として、あらゆる愛を固定化する。〈恋人〉、〈夫婦〉、〈家族〉といったあらゆる「存在」としての愛は、愛する対象を固定し、愛し方の定石を生み出す。ヘッセはこの一連の転変を「掟」という言葉を用いて、次のように言い表す。


愛の掟は、それがイエスから与えられたものであれ、ゲーテから教えられたものであれ変わりはないが、この掟は世間に完全に誤解されたということである!それはまったく掟ではなかった。そもそも掟など存在しないのである。掟というものは認識する者が認識できぬ者に伝え、認識できぬ者がそれを理解し、そして知覚する真理なのである。掟とは誤って理解された真理なのだ。(Hesse 1986 = 2019: 298)


「存在」としての愛は、ヘッセの言葉を借りればまさしく「掟」である。だが、愛において「そもそも掟など存在しないのである」。「掟」とは、愛を与える=認識する者が、愛を与えられる=認識できぬ者に伝えるために施した歪な細工なのだ。したがってまた、「結婚」という「掟」に縛られたウェルテルは、愛の失敗を運命づけられる。なぜなら、固定化された愛は、たとえ眼前に存在し、誰からの目からしても明確なものであっても、「誤って理解された真理」に過ぎず、〈与える〉という愛の本質的な在り方を見誤らせるからである。
 注意しておかなければならないのは、ここで論じている「結婚」とは、実用的見地──血縁の存続や安定した生活──におけるものではなく、完全な自由恋愛におけるそれであるということだ。実用的見地の観点からすれば、結婚は依然として全く有用である。自由恋愛という観念が優勢な現代においてさえ、しばしば結婚は実用的な理由でなされているし、当然なされてよい。問題は、純粋なロマンスにおいて、つまり自由恋愛における「結婚」の位置づけである。これは、実用的見地から鋭く分離されなければならない。『若きウェルテルの悩み』において問われるべきは、ロマンスにおいて「結婚」が何を意味するかということである。
 愛とは絶えず与え続けることに他ならないにもかかわらず、自由恋愛における「結婚」はその不断の活動に終止符を打つ──その終止符の力が実際にはいかに脆く、事実として、多くの婚姻関係が短期間の内に解消されようとも、「結婚」はロマンスに唯一にして最終的な到達点を与える。こうして、本来終わりのない愛に、「結婚」は終わりを創り出したのである。終止符が打たれた後には自由恋愛は文字通り存在しない。「結婚」した者にとって自由恋愛は許されざる禁忌となる。ロッテがアルベルトと結婚した時点で、ロッテとウェルテルには愛にまつわる全ては絶たれていたのである。
 しかし、ロッテが「真実の友情からの幸福」と呼んだ関係のように、ロッテとウェルテルにはさまざまな愛し方があったはずだ。事実、ロッテとウェルテルは幸福な関係を築き上げていた。あらゆる愛の可能性を葬ってしまったのは、「結婚」を愛の終着とみなしたウェルテル自身に他ならない。ウェルテルはロッテから愛を与えられなかったと絶望した。けれども、それは間違っている。最後の最後でウェルテルがロッテに愛を与えなかったのである。ウェルテルの死は、悲恋の訴えでは決してない。それは、愛を与えることの断念なのだ。「結婚」をロマンスの唯一の到達点であり終焉であると誤解し、「死」をもってそれに応答したのだ──人間における唯一の到達点であり終焉である「死」をもって。愛にそもそも終わりなどないのに!
 『若きウェルテルの悩み』の悲劇性は、ウェルテルの劇的な失恋にあるのではない。真の悲劇は、「結婚」を介して、彼が愛の存在に悩んだことにある。愛をいかなる形態であれ「存在」として捉えた瞬間から、あまねく愛は悲劇となる。なぜなら、愛は〈与える〉という永遠の運動の中でのみ成功するからである。


Schlecht leben die Geliebten und in Gefahr. Ach, daß sie sich überstünden und Liebende würden.

愛されて生きることはくだらないことで、危険でもある。そうだ、愛される人間は自らを克服し、愛する人間にならなければならない。

──Rainer Maria Rilke, Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge


参考文献